つくば在住でWebデザイナーやってる大学時代の友人との二人旅。


今回のメインイベント、





軍艦島が見えてきたー。

シルエットはだんだんハッキリしてきまして





街の姿がハッキリ見えてきました。

うはー。



ツアー客は30人くらいいたかと思うのですが、年齢さまざま。

それこそ老若男女。

皆様テンションMAX。


ガイドさん「今日はいないかなー。軍艦島出身の方が、お客さんにいることあるんです」


へー!



いざ、ドルフィン型桟橋に接岸しまして




上陸ー!

来るのが夢でした。


そう、友人も私も産業遺産が好きなのでした。




軍艦島は正式名称「端島」で、炭鉱の島として栄えたものの、閉山とともに

昭和49年に無人島となったそうです。



南北に480M、東西に160M、周囲約1200Mという小さな島ですが

なんでもそろっていて、学校や病院、神社まであったそうです、


「最盛期には約5300人の住人がいて、当時の東京都の9倍もの人口密度でした。

 年末のアメ横の混雑っぷり、

 ニュースで映りますよね。夕方の買い物時は、あんな感じだったそうです」


へーっっ。昔の年末のオリオン通りのような。


「軍艦島は、当時のままの姿ですが、ひとつ、新しいものがあります」



「あの灯台です。初代は閉山後に建てられ、今は二代目です」


確かに新しい。


「手前にあるレンガが、総合事務所です」


今日は白く見えますね」


今日は?


「波を被るため、レンガには海水がしみ込んでます。

 晴れると、このように塩が浮いてきます。

 雨の時は、色が違うんですよ」


へーっっ。




「あれは、大正5年に建てられた日本最古の鉄筋コンクリートアパートです」


「きつい仕事ゆえに、お給料は良くて、当時高値の花だったテレビが全戸揃ってました。

 ですので、閉山で島を離れる時、『また買えばいいや』的に、置いていく人が多く、

 部屋には当時のままの家電が遺っています」



脳内BGMは荒城の月。


「あちらは学校。その前にある骨組だけの建物は体育館です。

 もちろん、ほとんどの生徒の父親は炭鉱夫でした。

 採掘は海面下千メートルの地点まで降りて行って行うもので

 常に危険と隣り合わせでした。

 それゆえに、どこの家庭でも、朝、父親が仕事にでかけていくのを

 家族揃って見送ったといいます。


 軍艦島は、崩壊していっています。

 今の技術では、食い止めることができません。

 ですから、皆様が見ているこの姿は、今、この一瞬のものです。

 来年来ていただいても、同じ姿である確証はありません。


 先ほど、以前の住人の方がお客さんにいることがあると言いましたね。

 もちろん、当時お子さんだった方だけではなく

 炭鉱夫として働いていらした方も、お客さんとしていらっしゃいます。

 お若い方でも、もう80歳くらいでいらっしゃいますが

 皆様が、口を揃えて言うことがあります」




「あれは炭鉱への入口です。

 あの階段を上って、一気に地下の海面まで下っていくのです。

 その途中、屈強な炭鉱夫でさえも気を失うことがあったそうです。

 階段を上りながら、今日は生きて戻れるかと不安に思い

 無事戻ってきて、あの階段から外に出た時は、なんとも言えない解放感を味わったそうです。


 元炭鉱夫の方々はおっしゃいます。

 いつの日か、軍艦島の建物がすべて崩壊する時が来るかもしれない。  

 だけど、あの階段は最後まで残るだろう。

 なぜなら、炭鉱夫たちの執念、思いが染みついているからだ、と」


……

………


友「わー、泣いてんじゃないよ」


あんただって泣いてるんじゃないかああっ。


軍艦島への上陸時間は厳しく決められており、時間がまいりました。



おなごり惜しいですが、これで…

またいつの日か来ることがあっても、違う姿になっているんだろうなぁ。


ホテルのロビーに行ったら「軍艦島の想い出」的な冊子がありまして

読んでみましたら、当時は子ども用にプールがあったのだそうです。

島なのになんでプールが、と思いましたら

当時は生活排水が垂れ流し、また、ボタと呼ばれるクズ石炭(=産廃)を

海に捨てていたので、とても泳げる環境じゃなかったんだそうです。


この日みた海はとってもきれいでした。


これもまた、歴史の一コマなのかなーと思った日でした。



続く。